演出家の仕事

それは劇を、あるいはそれに類する何かを、解釈して構築することを意味する。この解釈というものが、完成品の趣向となって現れる。解釈は基本的に頭での解釈、身体での解釈という二つの軸を持つ。これらは明確に分離されず、交錯する。というのも、「台本」を頭での解釈で読み解き、その解釈から期待するリアクションが観客の精神に起こるよう、身体の解釈を用いて劇として組み立てることが演出家の仕事になるからだ。この二段構えの解釈が演出家の仕事の中枢になる。そしてこのどちらかに偏ることは、演出家の仕事を貧しくする。例えば頭でっかちな知的解釈を方針に据えた作品は観客とのコミュニケーションに失敗する。勿論作品が観客とコミュニケートする必要があるのかは適宜疑わなければならないけれど、それを完全に捨て去ることは劇を開かれたものにするよりもむしろどのような言葉も避けれるようにしてしまうという意味で寂しい。ここでの課題は接続ではなく距離感の絶えない調整だ、と言い換えてもいい。そしてリアクションに基盤を置いた解釈のみによって造形されたものも同様に、反応の成否に焦点を限定してしまう恐れがある。この問題は、娯楽性を第一に置いた純粋な軽演劇を志向することを否定するわけでは決してない。けれど演出家は、リアクションだけを期待する劇が対処療法的な幾つかの魅力を残すのみになり、観客に飼いならされてしまうことを危惧しなければならない。そして、これまでに書いた解釈の両軸のバランスを保つ演出は演劇の演劇性を満足させると同時に、劇の説話的必然性を持つものだとなお好ましい。この説話的必然性を満たす演出とは解釈をもって「劇」をいわばパズルのように、解釈をもって構築することを指す。既にあげた二つの軸が統合されて初めて達成されるこの必然性は、「劇」を知的鑑賞物からも娯楽的慰めものからも隔てる。あるいは、必然性の名の下にそれらへの合流を許す。